コンパクトに軍需品一般を解説した本。軍需品と言うと重厚長大な軍備に目が行ってしまう事が往々にしてあるが、ここでは軍服やヘルメット、靴やレーションといった身辺の装備品と言ったものに関して解説したものであり、モチーフが厳ついだけにごつい感じの品が多いが、その必要・十分条件を考えれば納得である。こういった、小物・小道具があって、初めて軍隊は軍隊として行動できるのだと改めて実感する。戦車・戦闘艦・戦闘機と鉄砲があれば裸で良いわけはないのだ。

 オセチアをめぐるグルジアとロシアの戦闘において、ミサイル艇とSu-25対地攻撃機、海外支援部隊の訓練しかしていない陸軍しかもって居ないグルジアに、ロシアがTu-22Mを撃墜されるわレーダーサイトは壊せないわといった失策の上に手痛いしっぺを食らった背景には、グルジアにはISR(インテリジェンス、捜索、偵察)とそのネットワーク化・通信機能がきちんと出来ていたことがあるという。
 ロシアの兵器に信頼性がなかったことも明らかになったが、一方で陸軍の基礎的な作りが良ければ、かなり堪えることができるということだ。こういう基礎がどれくらい自衛隊で出来ているか。空自はやっとLink 16を入れるようになったところ、陸自では通信機自体足りない上に、下手すると将来デジタルとアナログ通信が交錯しかねない(TK-Xはデジタル通信)。

 地味な装備が勝敗を分けるもの、と言うことを改めて感じた一冊だった。
 ちなみに本書の目的としては、チップス的に小説に使うとか言うのがあったけど、軍事モノの小説を読むときに+αの雑学として結構役立つと思う。架空戦記じゃなくて、リアル系ね。
 もうちょっと会計的にとか、経営的に「環境」とどう噛んで行くかと言うことを理論的・実践的に論じてくれればと思ったのだけど・・・
 環境と言う科学に対して社会・会社はどのように捉えているのかと言うと、この本から判ることはひたすら重荷であり考慮しないで済ませられればそれでいいと言うことなんだな、とだけは判った。それは会社における環境部門がどのような位置にあるかを内部から告発しなければ実態はわからないものだろうけれど、一概には低い位置なんだろうな、と。
 そしてここまで定性的概略的でなければ浸透しないほど、世の中は科学は対岸の火事であり続けるのだと。

 日本社会・自民党政府を動かすには利益の話をしないと駄目、とアメリカの少なくとも軍部は悟っている。残念だがそのとおりだね、と痛感した一冊だった。
 なかなか、ここまで性善説とをごり押しして何でもかんでも「友愛」をくっつけられると、無節操にしか見えなくなって辟易してくる。
 鳩山家の友愛の思想的背景とその背景の人的系譜とその後の系譜、公共哲学に関する各種思想の友愛をキーワードにした統合的な哲学・社会学を論じ、鳩山首相の所信表明演説や政策の評価・解説する面で鳩山政権を見る上での解説本としては使えると思った。

 しかし内容的にはどうか。(友)愛と自由は人間の第一原理、行堂と公平などを第2原理としていくことなどには理解が出来る。が、その演繹局面に関しては、調子のいいところだけを取り出しているように思えてならない。また、時間的スパンを大きく取り過ぎて日本を世界に開放するようなこと、世界国家の樹立など、は夢想もいいところになっていると思う。また近く外国人参政権に賛成するのも、友愛で取り込もうは、日本人としての泥を被ろうという覚悟がるのかと言うことからして、ありえないことだ。

 そして、友愛をラディカルに演繹しすぎる。どうしてこうも意見を述べる人というのは物事を過激に展開してゆこうと言う人が多いのか。そりゃあ、潔さかもしれないが?もう少し引いて考えたほうがいい。

 ただし、社会的な弾力、堅固さ、包摂性、そういったもののための公共を考える上ではある程度役に立つと思う。厄介なのは、その考えを国家と言う上部構造から教育を通じておろされてくると言うものになったとき、考え、議論し、同意する、という基本すら失いつつある現在においては、危険な状況にあるように思われる。
 環境問題を経済活動(生活)に接したところから広く浅く、自身の実体験と考えと共に論じた一冊。気候変動だ生物多様性だといった細かいことに深く突っ込むことなく、あくまで生活と経済のありようの面から環境問題に接するとはどういうことかを、理路整然と論じるのは天晴れ。持続的な社会を構築するための私たちの生活形態のありように関しても何だかんだと標語やら偉い援用やらを用いることなく、何がどうつながっているから、と言う考えで、かつ企業が悪・コミュニティが善という構図でないのも良い。むしろ、生活上の経済活動を通じて企業を律する、と言う態度で臨むべきという考えでいるところが、まことの当を得ていると思う。

 著者とは日本生態学会で何度もあって面識はあるし、ああ、この人ならこう来るよな、うむ、こう表現してくるか、と先が読める部分があって、その意味で私個人にはインパクトは薄い。が、環境と生活、と言うことを考える上での著者のエッセンスがこれだけ毒なく平易に表現されていることには敬意を表したい。
 激するだけでもなく諦念でもなく、人間の社会生活を生きるとはこういうことだ、と言う当たり前のことを、当たり前に書ける、それはすごいことである。
 著者は古色蒼然とした科学者から取材などをリジェクトされた経験があると言うから、本書に現れる科学者のように、おそらくはすんなり時間を割いてくれるのは、いわば新世代の捌けた科学者であると言う注釈は必要だろう。
 ビジネスマンにこそ読んで欲しいと言う本書は、きちんとした科学ライターがビジネス書の手法を使って文系の人にもわかるように書かれた、第一線を切り開いた科学者の総論である。登場する科学者も、世間受けしそうな凡才・無学でも近寄りがたい奇才・鬼才でもなく、とんでもない逆境を乗り越えた如何にも的なサクセスストーリーもない。きちんとした能力を持つか獲得して、きちんと行動し、きちんと成果を出すと言う話は、仮に成功者であるからといってもあまりに平素な、或いはひがみの対象物に見えるかもしれない。個人的には科学的記載にまったく物足りないのだが、いかにも的なにおいのしない話に非常は、文体からして小気味よく痛快に読めてしまう。
 こういう話がスッキリ出来る科学者、スッキリ書けるきちんとした著者というのは世間的にもっと評価されていいと思うのだが・・・世知辛いねぇ、世間は。
 憲法の矛盾、国連加盟の矛盾、平和運動の矛盾と言ったものを自身の理解と経験(平和運動の起こす腕力による暴力の被害者であり、言論弾圧の現場の報告とか)を論じるところから、国防の根本と国家政治の本質について、一人称を持って論じた本。
「防衛破綻」(中公新書ラクレ)とかぶるところもあるし、「軍事研究」誌に書いてあった話ともかぶる所があるのだが、まあまとめ本としては綺麗にまとまっていると思う。また、自身の意見は意見として明示しているのが、変に三人称化して押し付けてくるよりスッキリして、それを個人の意見として棄却するのも採用するのも読者に任せると言う態度はいいと思う。
 警察・検察・公安と自衛隊或いは軍隊は国家の暴力的側面であるが、これを臆せず論じきちんと使いこなせるようにすることは、緊急時の生活保護の面で重要である。むしろ、戦争は平和と平和の押し付け合いであり、自身の平和趣味を貫くために如何なる手段の暴力にも訴えることのほうが余程危険であることを考えたほうがいい。

 ちなみに軍事の常識として、マニアが役にたったことはない。平和も複数の徒党に分かれて衝突している限り趣味であり、やはり役立たないのではと思うのはどうだろうね。
 地雷処理の方法やテクニックが書いてあるわけではないし、地雷処理で安全に暮らせます、と言うことを宣伝したいだけでもない。
 地雷処理と言うことを通じて、国際貢献と地元の経済復興の道筋、自立への手助けをするにはどうしたらいいか、と言うことに対し、体を張って地元に入り込んでゆくことを身をもって説いたことの価値の重さは、ある程度の国際交流をやっている身として何となくは判る。少なくとも著者の行動は偉業だといってまったく問題がない。きちんと訓練された人間の、きちんとした行動は、正当な評価をされる、と言うだけなのだがそれが出来る人は早々居ないどころか、その前段に至れる人自体少ないだろう。
 物見由山とクチとビラで平和と安全が語れる趣味者の蔓延する中、著者の存在は、やはり光るものがあると思う。
 こうして本にするには相当の加筆もあっただろうけれど、新聞「記者」の基本であらゆる取材を組み合わせてある程度ジャーナリスティックに仕上がっているのは評価できる。電力9社独占分割体制と発電所というサプライヤーと送電網というディストリビューターの一体化した電力会社という日本の特殊事情がスマートグリッド化を阻み、更には売って何ぼの商売が妨げになる。業界の圧力姿勢をきちんと書いているのもジャーナリスティックでよい。乾いた雑巾の嘘もテレビラジオなら流せても、新聞かこうした本なら隠さず書けるか。
 批判的なのは褒められるが、産業構造はどう変わったら良いか、或いは-25%から漏れることに対するペナルティと救済方法と言ったことに対する対応を述べず、幾つか優良事例を挙げるだけで夫婦善哉にまとめで列記するのは頂けない。
 -25%というのは産業界の組み換えを促し、新しい産業を勃興するもの、グローバルケインズ問題で解決に向かおう・・・とか、もうちょっとあってもいいんじゃないか。

 取材、考察、批判、は良く出来ている。が、所詮ジャーナリズムで終わっているのは、何とも物足りない。ある程度資料価値はあるけど。
 何だかんだで田舎に引っ込んで静養してきた経験が何度もあるので、何となく、その感覚がよみがえるような感じがした。傷ついたりもう駄目なくらい消耗して疲れ果てたり、でもそういう時は意外と純真なもので、それが若いときなら特に入り込む濁点に耐えられないと言うのもよくわかるなぁ、と。
 物語だから、カタルシスもあるわけだけど、現実はどうだろう。何かしら失ったものを哀悼することで経験の澱になってるかな。生きた導きがあるのがフィクション、ないのがリアルか。
 ただこの物語にあるカタルシスは、軽妙に柔らかく、何かしら父性的なところもあるようで、好感が持てる。生活の描写が生き生きとしているのが、何となく女性的で絵画的だと思った。
 ベストセラーに良書なし、と思いつつ買ってしまったが、思ったよりきちんと骨があって結構楽しい話だった。日本人による日本人論の総論的な話で、うーん、なるほど、と腑に落ちるところが結構あった。まあ、理想的外部の人・等身大以下の日本人と言う図式とか、別書で論じているところでもあって、ほとんとが引用まとめ本なのだと語っているように、しかしエッセンスを非常に良くまとめていると思う。
 1500年以上の歴史で持ってエスタブリッシュメントを持たないと言う日本文化に、どんな成熟方法があるのかな。あと、私が欧・中・韓といった大陸人と接していて知らず頭の中をシフトしている感じがしていた理由がなんとなく判った感じ。
 期待を裏切る出来のよさに感服である。

理系の人々 2

2010年3月27日 読書
SEは軽いな
 知床100平方メートル運動とは何とも懐かしい感じがして読んだのだが、何か割り切れないつまらなさ・綺麗に表面だけをつくろったような感じが鼻について嫌な感じが残った。

 勿論、ナショナルトラスト運動の日本版を行った価値は大きいと思う。が、その生態学的価値・意義・道義が、いまひとつな感じで、自然を再生したい(そういや環境省の自然再生事業はどうなったんだろう?)と言う情熱はあるかもしれないが、あまりに人間中心・科学のかけらがないことに幻滅する感がある。

 斜里は確か農水省による最も美しい日本の田園風景にも選ばれた土地であり、私は行ったことは勿論、斜里岳にも羅臼岳にも登った。トドの焼肉も食った。羅臼湖、知床五胡、自然はすばらしかったと思う。だが、それは常に客体に対し謙虚であることを肝に命じることにもなった。が、このトラスト運動はいいことの押し売り宣伝ではないかと思えてしまう書かれ方だ。勿論それは地元の人の真意でもないだろう。

 新聞人の文書だけに、読みやすく出来ている。が、手前味噌・善哉的においがきつすぎるのが難点。
 いまや山の主人公である中高年のための山登りのマナーだが、楽しさ優先がどうも鼻につき本質的に注意すべき点などが柔らかくしか書いてないか書ききっていないのが何とも思いやられる感じがする。が、中高年と言うか、高年の方の世界を垣間見る感じができたのは、まあ勉強になったか。
 山で元気になる、健康になる、を前に出すのはどうか。
 体力が落ち、反射神経も鈍るなか、それを如何にカバーし、或いは劣化させないように日ごろを過ごすか。つまりは日々の暮らし方のありよう(きちんと運動し続ける、など)がきちんとしていなければ、山登りはやめたほうがいいと思う。

 ので私はウォーキングをし続けようと思う。
 八重洲ブックセンターではなく東大駒場で見つけて購入。
 国際感覚と報国精神のある元官僚による、官僚史観とでも言うべき点から見た農政の歴史と自分史、現在の体たらくの断罪、特にコメ問題をめぐる関税化とミニマムアクセスのせめぎあいなどなど、内幕と(少なくとも著者の・そしてある程度の情報がある人にとっての)正論と実情がきちんと書かれていて非常に好感が持てた。
 下げ線で見ても、佐藤優のように著者は実に出来る人でインテリジェンス、交渉力があるのだと私は思うし、エリート官僚の本懐というものを感じる。こういう人材が外れて出て行くと言うのは、国家にとっての明らかな損失である。が、役所をひがみの世界と見る世間の役所への僻みからすれば、こういう出来る人は鼻つまみ者なんだろうなぁ。
 民主党政権に期待も絶望もせず正論を説ける今のポジションが、氏の心身の安全のためにはいいのかもしれない。日本には高貴な職務を遂行できるポジションは無いのだと実感。
 どうでもいいくらい突き抜けたところが、吉田太郎だなぁ、と思う。あと「上げ線」で見ているところとか、自然農法とか有機農業を信仰しているところとか。
 まあ、それでもキューバの農産物輸入(完全自給でも完全有機農業でもない・化学肥料も合成農薬も使っている)とか、過去の過ちを認めているところは認めてもいいだろう。ただし新たに犯した過ち・アグロエコロジーの暴走があるのが何とも。

"logy"と付く限り、「学」である。Agroecologyは農生態学と訳される。日本生態学会であった、アグロエコロジー研究会(と言う企画シンポジウム)によると、Agricultural Ecologyが農業生態学・農地を対象とした生態学的考察なのに対して、Agroecologyはより食と農が一体となった包括的・総合的なシステム生態学的視点でものをいう様である。学である限り、幸も不幸も清濁もありで、なんでもハッピー・能天気な吉田氏の言うようなものではない。

 今回の生態学会のアグロエコ研で自然農法の紹介もあったので懇親会でちょいと演者に訊いてみたのだが、リン・カリウムは確実に収奪型農業で、供給源は過去に慣行農業だったときに蓄積されたものを使っているのだろう、あとは近くの慣行農地から風食で飛んでくる土が、とのこと。収量も慣行農業には振るわないという。
 基本、植物が吸収する窒素・リンは無機態である。堆きゅう肥や"雑草"の刈草を与えようが、化学肥料(硝酸塩や尿素、リン酸塩)で与えようが、作物が吸う時点ではNO3、PO4(など)であって、人間の勝手な行為の違いでしかない。

 温故知新、過去の農業体系を学ぶことには勿論価値があるが、刷新して再現する事が次に必要なことであり、過去に戻すことと勘違いしてはいけない。このあたりの発表も今回のアグロエコ研で発表があった。時間を割いて図書館に潜るかな。これから日も長くなるし。

 アグロエコロジー研究会は実り多い集まりである。が、多分、そこからは勘違いしている人々には失望しかないだろうなぁ。
 食糧関係?と思いつつ、何気に購入。章によりけりで、食材・農作物の世界的な移動・移入はまだよかったが、料理の名前の由来とか雑学っぽいことが殆どで食傷。書き方が俗説をきちんと俗説と認識して諸説を書いているのは良いんだけどね。
 もう少し食に対する業の深さを書いてくれていると良かったとおもう。
 割り箸に関して、先ずはその生産の現場を旅行することから、割り箸の輸入が始まったことの通史、環境影響に関する言いがかりの問題と解説、割り箸を通して見える環境と言うものに言及した一冊。

 私自身は、割り箸は外食で使うし、家では洗って繰り返し使っている。材木になれなかった木の部分の利用だから何ら問題ないと考えてのことである。その理解に間違いはなかったこと、かつ仮に全木材需要に占める割り箸木材の需要で見てもコンマ何パーセントかより桁が落ちる範囲だというから、誤差と言っていいくらいだろう。端材を有効利用しているといっても、やはり誤差の範囲になるけど。
 現在中国では森林が増えていると言う話だが、個人的にはきちんとした統計と言っていいのかと思ったりするが・・・
 マイ箸というのは、私の家に空調がないというのと同じ個人のライフスタイルとして勿論認める。が、それを崇高な思想にまで高めるのは押し付けなくてもカルトだと思っている。免罪符はそんなに安くない。そういう面で、会計というのは役に立つ道具じゃないかと思ったりする。
 プロテスタントの視点から主観的に、しかし絶対視したり賛美したりするのではなく、純粋に聖書を解説し、参考になる本を紹介した一冊。この本だけで完結はしないよ、と言うことだし、選書を読んでみるべしと言うのはあるけど・・・
 聖書をめぐる議論、教義・哲学的部分の各種解釈と意見といったものが綺麗にテンポよくまとめられているのが良い。確かに神学をある程度やるなら、新書2冊ではまるで足りないだろうけど、非キリスト者がキリスト者と対話するための基礎と考えるなら、その入門くらいにはなるかも。
 あとは、「見えないもの」に対する耐性、感覚を養う意味では、知性が磨ける人もいるかもしれない。
 世界的な中産階級の出現により食糧が逼迫すること、それは時代の必然であり一時期投機マネーが入って混乱したものの近未来において食糧の逼迫は避けられないものになるのではないかと言う前半、それを引き継いで物事が混迷した場合のシナリオとネットバイヤーである貧困農民の更なる貧困化・都市のスラム化という近未来を予測した中盤(黒のシナリオ)、対して物事を整理総括し農業を発展させる(灌漑や化学肥料、食糧流通)ことによりしのげる可能性を示した終盤(緑のシナリオ)、と言う構成。
 商業的農業に視点があり、そこから自給的で市場規模の小さい米に関してもどうも同等に見ている感があるところがアンバランスであり、また農業の市場自由化を推進すべきと言うところでは新自由主義チックであるが、真髄としては、食っていくためには商売も必要だと言うところにあって、商売のために食うのではないから、効率的な配分と言う考えの下に商業化を進めてはどうかという考えなのだろう。また特に先進国のミッションとして、技術普及や教育、低コストな土木を行うよう援助し、貧困農民を救う道を示唆しているのも新自由主義ではないことを印象付ける。
 黒のシナリオはまさに暗澹たるモノであるが、ソマリアやスーダンの現状を考えると、世界が一様に緑になることはないと思わざる終えない。また地下水やリン鉱石の枯渇問題を考えれば、化学肥料が万全でないことも明らかであり、全てに緑のシナリオが実現されることは、思想的には理想主義であり物理的限界を感じずにはいられない。
 緑と黒のまだらの世界だけでも何とか構築できないか。出来たとしてどれくらい持つのか。大きなバイオマスの人間は試され続けると思う。
 過去の山での遭難事故の数から入り、メカニズムや構造を解析し、第三次登山ブームとなった現在の遭難と救出の事件簿、更にはツアー登山の問題点などに関して解析し論じたなかなかの力作。救助を呼ぶとは恥を知れ、と言うのは金言である。

 簡単な話、登山と言うのは危険の塊である。それでもなお、登山と言うものには魅力があるし素晴しいものだと思う。如何にリスクを最小化するか、緊急時の対応をどうするか、は考えておかねばならないことだ。私自身夏山とはいえかなり危険な登山を経験したので、ある程度はわかる。怖いのは、自分のレベル、能力をと言うものを考えない向こう見ずさ(これもYHの登山で経験した・・・山の経験者は私一人)、まあそれが若さゆえなら何とでもなろうが、私自身体力の衰えを感じるなかをどう楽しめるようにするか、と言うのは難しい課題だ。

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