中々、正論を説いた一冊。統計からどういう場合に貧困に陥るかという事はまだしも、日本の福祉教育への公共出費って、先進国(またはOECD各国)の中では相当に低いという事には唸った。支出を増やしてもそれは現場ではなくその中二階に注入するか、現場を削って無駄遣い、上は見せないマスコミ政治のあり方など、本書でノベル格差そのもの以上にそれを取り巻く構造的な日本の欠陥がよくわかった。
 ナチスは積極的顕示的に問題のあると指定したモノを排除駆逐したが、日本政府は暗喩で弱者を排除しようというわけか。

コメント

loving-c.
loving-c.
2008年5月30日19:03

loving-c.です。

libertarianとは、主としてアメリカで盛んな
政治思想・党派の一つでして、
「自由尊重主義者」とも訳されますが、
(藤原保信『自由主義の再検討』(岩波新書、1993年)p.166)、
そのまま「リバタリアン」と呼ばれることもあります。
(森村進「リバタリアニズムから見た犯罪・非行への責任」
 法律時報76巻8号(2004年)57-62頁)。
リバタリアンの代表的論者として、
上記の故・藤原教授(早大の政経学部で政治思想史を
研究・教育されていましたが、1993年に、
59歳の若さで、逝去されました)は、
ノジィックやF・A・ハイエクの名前を挙げています。
リバタリアンの主張を知るためには、
故・藤原教授が上掲書で引用されている、
ノジィックによる次のような説例を、
そのまま引用する方が、下手に要約するより、
手っ取り早い、と思います。
 「ある優秀なバスケットボールの選手が
 あるティームと契約した結果、
 一枚二五セントの入場券が新たに年間百万人の人に
 売れたとする。それによって得られた新たな収益
 二五万ドルをその選手が獲得したとして、
 どこに不正があるかというのである。
 一枚二五セントの入場券を買った人は、
 みずからの意志にしたがって任意に他の選択よりも
 それを選んだのであり、その結果二五万ドルの
 収入増になってのである。もちろん、その交換の結果は
 第三者の利益を何ら損なっていない。かくしてそれは
 正当な交換の結果であったというのである」。
 (藤原・前掲書p.166.)
もっとも、故・藤原教授は、
このようなリバタリアンの主張については、
次のような批判をされており、
僕もその批判は、当っていると思います。
 「それはたしかにある意味では、個人の自立心と競争を
 促し、社会を活性化するかもしれない。しかしそれが
 弱肉強食を正当化し強者の利益に与していくことは
 たしかであろう。(中略)そのような理論が
 妥当するためには少なくとも出発点における平等が
 前提とされなければならない。しかし実際には
 能力の相違が事実であり、しかも交換の過程に
 さまざまの偶然も働く。つまり結果は本人の
 責任でない要素に左右されることろが大きいので
 ある」(藤原・前掲書pp.166-167).

なお、リバタリアニズムは、
これも上でご紹介した、
一橋大学の法哲学(法についての哲学的・原理的
学問で、法・国家・正義・権利・義務という、
法の根本的問題を研究対象とします)の教授、
森村氏の論文のタイドルからもご想像できるとおり、
犯罪への対応の仕方についても、
独自の理論を展開しまして、
森村氏が紹介されている一例だけを挙げますと、
ボストン大学のロー・スクールの教授である
ランディ・バーネットは、
「刑罰制度なしの純粋損害賠償」を提唱する
そうです(森村・前掲pp.57-58).

 森村教授は、「リバタリアニズムにコミット」
されるそうですが(森村・前掲p.57.)、
それでも上記のような、バーネットによる
主張には疑問を表明されます
(詳しくは、森村・前掲pp.58-59を読んでください)。
僕は、少なくともリバタリアンではないので、
森村教授よりさらに多くの点で、
バーネットによる主張には、疑問を感じます。
その最大の疑問は、犯罪の中には、
同居の家族同士によるものも少なくないのですが、
こういう場合に、被害者が加害者に対して
損害賠償を請求することはあまり考えにくいが、
このことによって、被害者と加害者の関係によって、
結果に著しい損害が発生してしまい、
正義に反するのではないか、と思われるのです。

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