早起きする必要はないのだが、起きてしまう。どうしようもなく喉が渇くのが原因のようだ。寝る前に水は飲んでいるのだけど。
 先ずは朝風呂、ひげを剃り、さっぱりする。今日は10時秋葉原駅前のビルで研究集会なので9時ちょっと前に家を出ればいい。まだ2時間近くある・・・眠い・・・二度寝。出発時間丁度に目を覚まし、出発。
 研究集会は各種報告と来年度の議題について。食品産業界の方が中心に集まる中で、農業界は私くらいだったと言う事もあり、勉強になる反面、私自身の広報の重要性を感じた。
 雨の秋葉原、液晶ディスプレイの品定めなんぞもしたかったが、午後からは職場の評価会議で私の研究に関係する発表が2つ終り頃あるので、上野駅で昼食をかき込んで、一旦家に帰ってスーツに着替え(何しろ農水省とかからお偉いさんが来るので)、職場に出る。
 評価会議はそれほど深刻な事もなく、話が進んだ。発表者にKリーダーが居たので、そのサポートも考えていたが、勇み足も必要なく何となく終った。
 研究室に帰り、メールを見ると、研究課題評価の結果が帰って来た。私は2つの研究課題に関わっているが、寄与率の小さい方が評価最高ランクS、寄与率が大きいKリーダー旗下の方が唯一のランクB。まあ、オンザレールの前者と全く手探りの後者で明暗を分けたと言える。私個人に関わる件としては、過去の研究成果との差別化をどうするかと言う批判点と、OECD対応への期待、マッピングを急げ、といった推進点が挙げられていた。まあ、気合い入れていきましょう。
 来年度一年、6ヶ月の研究時間でどれだけの事をしたらいいだろうか、と考えながら、学会のポスターの図を作る。表は家で作ろう。

 親殺し、子殺し、と言うのは、何らかの契機によってdrasticに、または様々な経時的な変化によってgradualに、いつかはやってくるものだと思う。私は修士2年目から授業料免除に加えて奨学金をえられた事で、社会保険を除き(年金は院生なので免除申請をしていた。当時は今とは違ってそんなに厳しくなかったが)、経済的に独立した。親殺しは、所謂思春期から心理的に、これらの過程で社会的に、stepwiseに行われたと実感している。そう考えると、私の本質的なモラトリアムは10年くらいあったのだと思う。
 私の先任は「30で社会通念(≠研究上の通念)をつけておくこと」を言われたし、この辺のバランスは職業上どうも感じにくいのだが、研究者の社会的責任は、博士号とともに受け持つ事となった感がある。
 腐れ縁の悪友たちと、本当に縁が腐ってますます切れない縁になって来たと思えるようになったのも、自分の個人としての人格的、社会的な成熟過程と平行していると思う。勿論、完全ではなく、きっとこれからの変化と社会情勢の中で、常に変成して行くものだと思うし、大学浪人や就職浪人以上の変化を強いられる事もあるだろう。
 そうやって「美しい国へ」に見るOn the railな人生や、ここ4-5年の自分探し=発見してもらう自分、社会性のないonly one、と言った現象は、何かなぁ、と思う事が多い。「大人がいない・・・」を至極実感したのは、少なくとも2例、「親からは離れられない」と言ってしまえるある年上の女性と話した事がある事(よって未婚だそうだ)、趣味には自前でン100万単位の投資をしながら結局は「自立する前に支援を切られた」と泣き言を言える大学の後輩が居る事(生活保護を受けながら働く事は「バカらしい」と言う。債務放棄を逃れる詭弁はそいつの後輩=大学生に迄迷惑になった)。選ばなければどこかの大学には入れる時代、そこ迄行かなくても私の指導教官は学生の質が落ちている事を嘆いている。
「下流指向」という本は読んでいないが、社会の低下が構成する国民の低下、正規分布からポワソン分布へのdorasticな変化があるんじゃないかと思う。
 下に帰って、じゃあ人の質って何だろう。そう考えたとき、私はやっぱり人独りが自立/独立できる事、つまりは親殺しを経る事だと思う。私に子供は居ないから子殺しは出来ないけど。
 友達のような親子、は、拡大するとアメリカ化する日本なんじゃないかと思う。その意味で、アメリカに憧れと基礎を置いてしまった小泉ー安倍政権と言うのは、時代の寵児であり、よき反面教師に見えてくる。

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